三重県の北部の神社、別名:北伊勢大神宮

多度祭

多度祭の由緒

当社御例祭は一般的には多度祭と称され、上げ馬神事、流鏑馬神事はその中の神賑行事で、毎年十数万人の参詣者が訪れ賑々しく執り行われております。
この神事は、南北朝時代の暦応年間(1338~1341)に、このあたりを分領する武家の中より始まったとされておりますが、元亀2年(1571)織田信長の兵火に罹り、社記散逸された悲しい歴史があり、どのように始まりをみせたのかは今尚詳らかではありません。
一時中断していた祭事は、徳川四天王の一人、本多忠勝公が慶長6年(1601)に桑名城主として着任され、その再興に尽力されました。
先ず、お旅所行列に巡行される三基の御神輿が献納され、神事料米10石5斗、馬具等が貸与されると共に、御厨(神饌をお供えする地区)が定められ、御厨の者に『神慮を窺相勤可(うかがいつとむべし)』との命をくだされ、武家社会から御厨を中心とした民の神事へと移り変わりました。
その後も、歴代の桑名藩主により、手厚い保護のもと今日まで連綿と継承されてまいりました。
御厨は本来七地区から構成されていたが、近年少子高齢化と人口減少に伴い、残念ながら祭事が出来ない状況となり六地区となり祭事を継承されている。その中で、神児一名(肱江地区)騎手五名(小山・戸津・北猪飼・力尾・多度地区から一名宛)が選出されます。
騎手が選出される地区は上げ馬を行い、その順番は、毎年輪番で交代しておこなわれます。特に最初にそれを行う地区を花馬といい、その地区の指示により神事が進行されます。
この神事では、古くより農作の時期や豊凶を占われております。数多く上がれば豊作、少なければ凶作、又最初の方の馬が上がれば「早稲(わせ)」、中頃であがれば「中手(なかて)」最後の方であれば「晩稲(おくて)」の苗を選ぶと良いとされ、稲の品種も占われてきました。近年ではその上がり具合によって景気のよしあしも占われているようです。
現在の神事は、寛政6年(1794)にその内容を記した『大祭御神事規式簿』とほぼ変わらない姿で受継がれており、昭和53年には、三重県無形民俗文化財に指定されています。

 

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