
概要
多度大社は五世紀の後半、雄略天皇の御代に御社殿が建てらたとされ、それ以前は標高403メ−トルの多度山全体を神体山つまり、神様として仰がれていました。また御祭神が天照大御神の御子神である関係から伊勢の神宮に対し北伊勢大神宮とも言われ、北伊勢地方の総氏神として崇められています。また、古くから「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」と謡われ、伊勢参宮の折には当社にも必ず参拝に訪れたことがうかがえます。
また、境内には神馬がお遣えしており、春には上げ馬神事、秋には流鏑馬祭り、更には、神の使者である白馬が、人々に幸せを運んでくるという「白馬伝説」など、馬と関わりが深く、近畿東海はもとより、東京や大阪方面からも多くの参拝があります。
変遷
奈良時代末期には、満願禅師が多度神の神託を受け、天平宝字7年(763年) に我が国で7番目に古い神宮寺が建立され、後に国分寺に準ずる扱いを受け、寺院70房、僧侶300余輩を数える大寺院となりました。
延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』巻九神名帳に「多度神社名神大」とみえ、いわゆる延喜式内名神大社であり、後一条天皇の御代には、熱田神宮や鹿島神宮といった「東海道六社」のうちの一社にも数えられました。
南北朝時代の暦応年間には多度祭の上げ馬神事、流鏑馬の神事も始まったと伝えられ、御神徳はいよいよ広大無辺となり、皇室からも度々幣帛が献られています。
しかし、元亀2年(1571年)5月、長島一揆の際、神社とその周辺の寺院が織田信長の兵火にかかりました。この為、本宮をはじめ摂末社、神宝、古記録、七十余りに及ぶ神宮寺の堂、塔、伽藍が全て焼きつくされ、多度の神域は一朝にして焼土と化してしまいました。信長がこのような行動に出た理由としては、当時の桑名郡の諸侍等は信長の神社仏閣に対する暴悪に不服を抱いており、彼等は当社に集まり、信長の調伏を祈願したのです。これを知った信長が怒り、放火の命を出したという訳です。 またこの後、文禄4年(1595年)豊臣秀吉が租法を定める際、神領、御厨、寺領の田畑を全廃し、神社はいよいよ衰退の極みとなりました。 その後、慶長5年(1600年)本多忠勝が桑名城初代城主になり、桑名の地を整えるに際し、先ず当神社の再興を図りました。また、明治6年に県社、大正4年には國幣大社という社格が授けられました。そして、平成8年には大社号の奉称を認められ、正式名称が多度大社となりました。
御神徳
北伊勢地方の総氏神様として、1500年以上信仰を集めてきた多度大社。人々の安全と、産業の発展をお守りいただいています。また、古くから雨乞いの神社として有名で、遠方からも多くの方々が参拝に訪れたといわれております。
雨乞いには、黒い御幣を用い、その御幣を置いたところに雨が降るといわれております。当時のお百姓さんたちは、大事に村に持ち帰り田畑の真ん中に立て、その後、祠を建て社名を多度神社、一目連神社などとし、雨乞い信仰が広く伝わっています。
近年では、様々なご祈祷をお受けしておりますが、特に、馬は人を轢かないという事から交通安全に訪れる方が沢山おられます。





